日記
休日。
平日休み。
この土日が仕事になるので振替みたいな感じ。
平日の休みでありがたいのは大抵の場所が空いているということ。
だが、一人だとその大抵の場所の範囲もかなり限られてくる。
せっかくの休み、一日中家にこもっていてもそれはそれでいいと思う。
そこそこに積もった雪もその考えを後押ししてくれているように思えたが、時折見える晴れ間が少しずつ雪を融かしていく。
そういえば献血の依頼のメールが来ていた。
ので、あまり考えることなくアプリで予約をいれる。
便利なものだ。
見返してみれば去年は丸々一年献血していなかったらしい。
健康体だったのに申し訳ない気にもなる。
献血センターに着くと、今回で10回目ということで記念品がもらえた。
10回かぁ。
もっとしている気でいた。
今回は成分献血。血小板の方だったかな。
一度血を抜いて、成分だけ取り出して残りを戻す。のかな、たぶん。
全血と呼ばれるものよりは体への負担も少ないみたい。
あとは時間も長くなる。
1時間ぐらい。
ちょうどいい。
片手はふさがっているが読書も文庫本であればギリできる。
思ったよりできることは多そうだ。
テレビもあるが僕は早々にミュートにしてイヤホンをつける。
そして気づいたら寝てた。
体に針を刺したまま寝ていた。
よく考えたら恐ろしい状態だったな。
おかげかあっという間だった。
本当は1時間あればいろんな考え事したいなとか思っていたけど寝て終わり。
けれど社会貢献をした気になれるというのはかなり大きなメリット。
自己満足に過ぎないが、精神衛生上かなりプラスに働いている。
ということで今年は献血しっかりいこう。
目標は12回。月に1回。
これぐらいはクリアしてほしいな、自分。
ではおやすみ。
新しい市
昨年の11月に引っ越しをしてから、職場までの通勤路が少し変わった。
少しというのは引っ越した先が旧居から2キロ程度しか離れていないことが理由である。
勤務先は前の居所からも今のところからもだいたい25キロぐらい先でまぁ車で45分くらいのところなので、結局は通りなれた幹線道路に出てしまえば景色は以前と同じ。
けれど、その幹線道路までの道が多少変わったことでちょっとした違いが生まれている。
通りにあるお寺の掲示板には誰かのありがたい言葉が貼りだされていて、交換の頻度はまだ把握できていないが、ちょっと気になる存在だったりする。
今は三島由紀夫の言葉だった。
他人のあらさがしをしている間は自分のことを見なくて済む、みたいなニュアンスの。
ああ、自分もやりがちだなと通勤途中に自戒を込める。
そんなこんなでまだ慣れていない景色も楽しめる時期なのだが、気になる看板がひとつ。
ほとんどの文字が掠れているのに、なぜか「市」だけ全く綺麗な看板。
車で走りながらなので、まだ全容を把握できていないが、どうやら何か市の施設の案内らしいことは伝わる。
「〇〇市〇〇〇〇 〇〇市〇〇〇〇」
みたいな。
最初は市だけめっちゃきれいやんとしか思わなかったけど、通勤中暇なのでそのことをぼんやり考えた。
会社に着くころ、ようやく仮説を導いた。いや、答えだろう。
何年か前までここはまだ「市」ではなく「郡」だったなと。
市に変わった際にそこで綺麗に書き直したんでしょう。
看板ごと変えるコストよりも対象の一文字だけを変更する方が、となったのでしょう。
これ以上の解答はないだろう、とひとりで満足気にうなずくが、誰も答え合わせはしてくれない。
人に話したところで、あー、そうだろうね。で終わり。
あれ、こういうことで誰かと共有していいんだっけ。こんな些末でくだらないことって自分の中に留めることしかできないんだっけ。
昔はこんなことを誰に言うでもなくSNSとかで書き込んでいただろうか。
今はなき、ツイッターではこんなことをつぶやいていたような気もする。
いつの間にかXとなり、ほとんど読むだけとなったが、随分と殺伐として見えるのが悲しい。
コメントが盛り上がっているかと思えばほとんど意思を持っているのかわからない、日本語の羅列を並べているだけのプロフィール欄が外国語だらけの存在しているのかもわからない人同士でインプレッションを稼いでいるように見えるし、血の通った人間を見つけたかと思えば、随分と高圧的な口調であったこともないであろう人にご高説を賜っている人がいるなど、穏やかな空間は薄れていっているようだ。
今日書きたかったことはこういう話ではなかったのだが。
そう、看板っておもしろいよね。これが言いたかっただけ。
読書メモ いつか月夜
いつか月夜 - 寺地はるな
ソフトカバーの本で、表紙のザラザラ感がなんとなく好み。
付箋が多くなりすぎてしまった。
今は読み終えたばかりで、感想もふわふわとしていて書き留められそうにない。
また付箋の部分だけでも読み返して物思いにふけりたい、という本かな。
読んでいて、あれ、この場面自分も経験したことあるぞ、と思う部分が多くて
なるほど、これは別に自分が特別だったわけではない、至って普通のことなんだなと安心できた部分もあった。
今の自分だから重なる部分も大きかったんじゃないかと思う。
多分もう十年も前の大学生の頃に読んでも今の受け止め方とは違っていたのかなとも思う。
そういう意味ではいいタイミングで読めた気がする。
積読していた自分を褒めたいぐらい。
もっと早く読んでも別に良かったか。。。
生きている中でたびたびぶつかる理不尽というか、これおかしいでしょ、と思えるようなことの解像度も共感地もが高いところに付箋つけがち。
不幸中の幸いのどこが「幸い」なんだ、不幸は不幸だろ
言葉は通じるのに話が通じない
へんな人は時間に関係なくいる
とか。
こういう、そうだよねと思えることが書いてあるおかげで価値観というか目線を合わせやすく、読みやすかったのかもしれない。
そう、読みやすかった。
派手な事件はないのに、読めてしまう。心地よい。
一晩寝たらもうちょっといい感想が浮かんでくるかもしれない。
いつか月夜 寺地 はるな(著) - 角川春樹事務所 | 版元ドットコム
真っ赤な葉っぱ
葉っぱの赤いやつ。
クリスマスの時期によく見かける。
それをもらった。
職場の人が、事務所に置いて行ったのだが、年末休みに入るとだれも面倒みないだろうし、ブラインドも閉めたままになっては、と思って持ち帰ることにした。
でも調べてみたら、別に水は毎日上げる必要もないし、直射日光を当てる必要とかもないらしい。
むしろ暖房の効いた部屋に置くことのほうがマイナスかもしれないとすら思う。
観葉植物を置きたいという思いはあった。
引越をしてスペースが余っているというのもあるし、ちょっと丁寧な暮らしへの憧れもある。
この機会に園芸を始めようか。
が、すぐに飽きてしまう自分も容易に想像できる。
ホームセンターに寄る。
園芸コーナーには聞いたことないような名前のどこかで見たことあるような葉が並んでいる。
迷う。
小さくていい。けど、これはもしかして成長したら大きくなって植え替えが必要なのか?
とか、素人にはわからないことが多すぎる。
店員さんに聞けばいいのに、なんか恥ずかしくて聞けない。
ので、帰って調べてから買うかどうか決めよう。
ポインセチアの葉がどこかしおれて見えるような気がしないでもない。
けど水のあげすぎもよくないらしい。
言葉を話してくれたらこっちもやりようがあるんだけどな。
仕方がないので僕はポインセチアの顔色を伺い、霧吹きで一吹きだけ水をかける。
葉は水をはじいて綺麗な玉をいくつも作る。
もう少し理科をちゃんと勉強していればよかったかな。
というより、勉強としての理科は多少できていても現実世界との対応付けができていなかったんだろうな。
ただ単にテストでいい点を取るためだけに身に着けた知識に意味はないらしい。
最近になってようやく気付いたことのひとつ。
今からでも遅くはないだろうか。
盲信するしかない。
もうすぐ年が変わる。
新しいことを始めるきっかけとしてはちょうどよさそうだ。
はたして来年の僕は植物を愛で始めるのだろうか。
読書メモ 月の立つ林で
月の立つ林で 青山美智子
普段の生活でも当たり前に存在しているすれ違い。
考えてみれば思いつくようなことでも、自分本位に物事を考えていると相手の立場を見失いがち。
立場というか視点というか。
小学生、あるいは中学ぐらいまでの「道徳」の授業でも散々言われてきている、相手を思いやる心を持ちましょう。という形骸化していた言葉。
作中に出てきた登場人物はいろいろな出来事を経験してその視点に気づいているが、僕らは日常の中ではそういった象徴的な出来事は起こりづらい。もしくは起こっても見落としがち。
だから他者の視点に立つことを忘れて、怒りも覚えるし、傷つきもする。
もちろん立場を理解しようとしても結局はわからない(共感できない)こともあるだろうが、悲しいのがすれ違うこと。
良かれと思って、、、の行動が裏目に出てしまうケース。
章立てになっていてそれぞれ語り手は違うが登場する人物、キーマンは共通していて、全体を通して大きな物語を展開するという僕の好きな形式の小説だった。
読者の立場は特別で俯瞰してみていられるはずなのに、読み進めるときはどうしても語りての視点に寄りがち。
つい物語の視点者を肯定してしまい、自分にとって本位ではない登場人物が出てくるとおもしろくないのだが、語り手自身がそれが身勝手な決めつけによるものだったりと気づいてくれるという信頼感があったから安心して読めた。
いつも以上に言語化がうまくいかないのは4章があまりにも自分に”刺さってしまった”からかもしれない。
読み始めてからずーっと「月の立つ」ってどういう意味だ?思っていたがちゃんと解決できたのがよかったが、わかる人は初めからわかっていたんだろうなと思うと自分は語彙を知らなすぎるな。
表紙が凹凸で浮かびあがるようになっていてかっこいいなと思って買っていた本。
本棚の眺め
本を買ってしまう。
まだ読んでいない本がいっぱいあるのに。
書店に寄ってしまうからだ。
あんなにおもしろそうな本を並べておくのが悪い。
僕は悪くない。
この世には面白そうな本が多すぎる。
大抵はちょっとだけ立ち読みして2.3ページ読んで、よし買おう、となっている。
けれど時には表紙がかっこいい、おしゃれ、というだけでよし買おうとなっていることもある。
たまに表紙だけ変えている(あるいは上から重ね掛けしている)ものがある。
かっこいいんだよ、これが。
家にある本なのに買ってしまいそうになる。
別に買っちゃいけないわけじゃないし、むしろ買わせようという努力なんだろうが。
まだ買わずに踏みとどまっている。
けれど、僕は本を絵画的にとらえている部分もある。コレクションというか。
本棚にあるだけでも満足というか。そう考えたら同じタイトルでも表紙が違うものがあってもいいじゃないか、と自分を説得しようとする自分もいる。
お金が無限にあればいいのにな。
せっかくのコレクションだからあまり本を売ってこなかった。
けれどついこの間本を売った。
引越して本棚を新調した。
本棚にすら入っていなかった本が多くなりすぎたから。
今ある本を並べたらすでにそこそこ埋まってしまった。
さすがに過去の自分が選んで買ってきた本たちだ。
おもしろそうなもの、面白かった本、きれいな本が並んでいる。
いつか何かのきっかけに読み返すんじゃないかと想像していいる。
けれど、これだけ本棚を圧迫してしまっていては新しい本が増やせないのではないか、買い控えを起こしてしまうのではないか、と僕の中の誰かが声をあげる。
そうしてひとつの結論を導き出す。
本を売ろう。
そうして選ばれた40冊あまりを箱に詰めて古本屋さんに送る。
キャンペーンをやっていて何パーセントアップだったかなんかしらお得なクーポンがあった。
送料は買取金額から差し引きして計算するらしい。
そんなこんなで査定結果が出た。
100円。
ええまぁ。
そんなに値が付かないだろうとは思っていたけれど。まぁ、そうだよな。
むしろ申し訳ない気持ち。
僕が読まなくなった本、もう読み返すこともなさそうな本を送ったのだ。むしろ高く買い取られるのは新しい(出版時期が)本であったり、有名な本であったりするのがほとんどだろう。
それらの特徴と真逆のものを送ったのだから値が付く方がおかしいともいえる。
古本屋も売れる本でなければ買うメリットもないのだ。
買い取った本を売って利益を出さなくては存続できないのだ。
そうした背景の100円。
振込手数料を仮に考慮していなかったとしたら、100円どころかマイナスもあり得たのでは?
なんだか申し訳ないな。
おかげ様で僕の本棚は少しだけすっきりとして、より洗練された感がでている。
次に本を売るとなったらきっともっと先のことだろう。
その時は値が付きそうな本を売るのだろうか。将来の僕はどう考えるだろうか、あるいはそんな僕は存在しえないだろうか。
それはわからない。
先日知人に本をもらった。布教したくてたくさん買ったんです。と。
すごいな。
その発想は僕にはなかった。
この本いいぞ、と人に本を配る。
これが推し活か。
うん、いい。
僕も推し活をしようか。自分のコレクションを見てくれと。
人の本棚を見るのも楽しいかもしれない。
ついこの間の古本市もそうだった。
実際の本棚よりはかなり小さいだろうが、そのひと箱にその人の好み、思い、感情が詰め込まれている。
今の僕はそのひと箱に何を詰め込むだろう。
僕の推しはなんだろう。
こんなことを考えて本棚を眺める。
いい景色だ。
読書メモ 動物たちは何をしゃべっているのか?
動物たちは何をしゃべっているのか? 山極寿一 鈴木俊貴
つい最近鈴木先生は情熱大陸にも出ていたし、もとからゆる言語学ラジオでも知っていたので、実験の話はすんなりと理解できた。
対話本ということもあって読みやすく、読書筋力もそこまで要さないと思う。
読む前は内容について、実験で分かってきたこととか苦労エピソードとか、一般の人が体験できないような出来事とかが知れるのかなとぼんやりと思い込んでいたためか、読み終わった後に受けた印象はかなり変わった。
もちろんそういった話も興味深いのだが、後半、特に4章での人間の言語に対する危機感の話が驚きが大きく付箋だらけになってしまった。
全体を通して僕は「言葉の持つ力」とかに言及している部分にフォーカスしがちだったが、後半はむしろ言葉のネガティブな側面にスポットを当てていて、考えさせられた。
けれど、それがまったくもって新視点だ、という驚きではなく、うっすらとではあるが自分が感じていたようなことをそれこそ言語化されていたことで、より印象深く感じたのだと思う。
SNSの発達等により文脈を読めない、という例も想像に難くなかったし、むしろよく目にする。
立ち止まってみれば自分もその気があるんじゃないかと不安にもなる。
言葉の危うさを感じた一方で、その状況を説明し、共有してくれたのも言葉である。
言葉というか文字によって、場所、時間を超えてメッセージを伝えられるという強みと、本来人間がもっていたコミュニケーションとしての「文脈」の喪失が暴走を生み出してしまう危険性。
関連するかはわからないが、カズオイシグロの文学白熱教室という番組での話を思い出した。
大きなテーマとしてなぜ人間は小説(フィクション)を読むのかという話だったと記憶しているが、感情を共有したいという話があったと思う。
歴史書やルポルタージュのような事実が書かれたものだけでは人間は満足できない。
そこに感情が付帯していてほしいのだと。
ある歴史上の出来事について、「何年にどこどこで人々は飢えに苦しんで死んだ。」という事実ではなく、大切な人を失った人の感情を共有したい、知りたいと思うのが人間の欲求なんじゃないか、みたいな話が出てきたと思う。
これがこの対談でいう、「文脈」あるいは「ストーリー」ということなんだと思う。
この「ストーリー」を読み飛ばしてそこに存在する事実だけを取り上げておもしろい、おもしろくないを判断してしまっているような。
この本でもAIの話が出てきたが、僕が何となくAIに対して苦手意識、忌避意識を持っているのはこういった「文脈」を感じられないからなのだと思う。
ビジネスだとか、システム的な場面でもAIの活用は抵抗感がないのだが、いわゆる創作という場面ではどうも苦手だ。
AIによって膨大なデータを基に抽出された「おもしろい話」とか「素敵な絵」(この表現は僕の語彙力がないことの証左にすぎない)にはどこか欠落している何かがある気がする。(あるいはあってほしいという願望)そしてそれはよくないんじゃないかという直感。
いずれAIの書いた小説が文学賞取ったりとかするんじゃなかろうか、とかも思うが、それはなんだか、違うんじゃなかろうか。それを評価する人間側にも問題があるのか。
なんかで見た写真コンテストの入賞作がAI生成だったみたいな話も聞く。(ソースは覚えてないがそんなことがあったはず)
なんだかそれは物寂しいと思う。
カズオイシグロの話に戻るが、小説は感情を伝えられる。私はこう感じた、それを書いて君に見せている、君も同じように感じるのか、少しは自分の気持ちを理解してくれるのか。みたいなセリフが好きでよく思い出すのだが、小説を読むときにはこのことを頭に置いて読んでいる。
この本を読んでいて記号接地したような感覚を覚えた。
動物の言葉の研究から及んだ話で人間の言葉への言及、読んでよかったと思えた。
この本の感想というよりは内面で感じたことの羅列になったが、付箋がたくさんあるのでまたじっくり読み返してみたい。
動物たちは何をしゃべっているのか? 山極 寿一(著) - 集英社 | 版元ドットコム
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